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幾らかの運命についての考察

.28 2014 .+*詩*+. comment(0) trackback(0)
 幾多の涙が流れた
 その涙を人は雨の雫と区別しない
 けれど私の中で、それは明らかに別なる存在
 あれは涙だった
 生きるほどに、私には運命の輪が確かに感じられてならない
 それはあるのだ
 自らの意思で回したと思おうと、それは確固たる姿と力を以ってして私たちに干渉する
 全ては巡り合わせ、運命の為せる業
 如何様に抗おうと、人は運命の前に等しき存在
 けれど私は生きるのだ
 この手で、何かを動かすのだ
 私は考える
 運命というものがありながら、人は何故思索し、動くのか
 意思が何故存在するのか
 私が誰かを愛するのもまた必然の定めだとするなら、何故私はその人を愛するに至る過程をふまえるのか
 その答えを得るには、ほんの幾らかの熟考が必要だった
 いつだって、運命は私の後ろに潜んでいる
 たまたま振り返ることがあって、そうした時に、それが運命だと自覚する
 私が多くの物事を運命だと感じないのは、運命は全ての事象に干渉していながら、それを滅多に認識させないことにある
 しかし全てがそうだと悟った時、人は絶望してはならない
 単に身を委ねることは、最も非効率的で、虚無的で、残酷な行いだから
 私たちは定められた運命が現れる時のために、お膳立てをしなければならない
 それがたとえ、まるで役に立たなかったとしても、やはり運命が現れた時、何かしらその御前に捧げ物が無ければ、運命は同じ事象でも実に簡素なものしか与えないだろう
 必然がその姿を垣間見せる時に、最善の状態であることを願って、私たちは生きる必要がある
 全てがカチリと当てはまった頃、運命は輝きと共に、最上をこの身に与えてくれるに違いない
 だとすれば幾多の涙さえ供物の一つに、なるだろう


〝運命〟に対しての一つの捉え方を表した作品です。
こういった考えは一度形にしておかないと、使いづらいような気もします。
荒削りですが、これがもっとまとまった形になった時、それはおそらく今後の作品の中の人物が抱いた状態で、現れると思います。
とは言え、何言ってんだ、みたいな話でもあるので、最初にこれが中二病的でないことも断っておきながら、少しばかりの補足をしようと思います。

運命とか、巡り合わせとか、そういったものは、やはりどこかしらあると思います。あると思ってた方がいい時もありますし、あるんじゃないかなとか感じることもあります。
特に人との出会いの数々は、運命が働かずにはいられない分野じゃないかなと。
運命的な出逢い、とかいうやつです。
俺の書く多くの作品では登場人物たちは結ばれますけど、そこから破局とかの展開にならないのもやはり、それが運命だからなんでしょうね。
でもその二人が運命の組み合わせか、ってことは分からないわけですね。
そうした状況において、やはり人は思い描く結果に向かってアプローチする姿勢を取るべきだと、俺は思うんですよね。もちろん、自然と取るでしょうけど。
運命の力が働けば、二人は自ずと結ばれてしまうわけですが、何も為さなかった場合と比べれば、やはり為した時の方が、得られる結果は、大きなものになると思う、そういうことなんです。

今日は少し、不思議な気持ちなので、こんな話になった、そんな気がします。
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